2008年5月12日、中国四川省一帯にマグニチュード7.9の大きな地震が発生、
約8万人の尊い命が奪われ、2万人が行方不明となりました。
地震で亡くなられた方々、そして今だ行方不明の方々の魂のために互人多メンバー一同、
心より哀悼の意を表します。
地震から2カ月過ぎた7月15日、互人多は大きな被害を受けた都江堰市を訪れ、
仮設教室で学ぶ天馬鎮の楽民小学校(児童309人)および金法小学校(児童42人)の児童計351人に
文房具・運動具・菓子などを届けてまいりました。
両校とも子どもたちは全員無事でしたが、金法小学校は校舎が全壊という状況でした。
被災地情報が交錯する中、私たちがこの地を訪問できたのは上海希望工程の協力によるものです。
文房具類は、上海で呼びかけて集めた義損金4万元で購入、配布は、互人多スタッフ4人のほか、
学生ボランティア(以下、学生Vと記す)5人(大学生1人、高校生2人、中学生1人、小学生1人)の計9人が
行いました。
6月23日に授業が再開したばかりの仮設教室で、学生Vが子どもたち一人ひとりに文具を手渡すことが
できました。またわずかな時間ではありましたが、昼休みに校庭で一緒に遊ぶなどの交流の時を
持つこともできました。
まずもって、今回の物資配布に際し、ご支援・ご協力くださいましたみなさまに
心より御礼申し上げたいと思います。
被災地の都江堰市天馬鎮へ
天馬鎮は成都市から都江堰市に向かう途中にある農村(成都から約40キロ)で、
都江堰市中心から10キロほど離れたところに位置しています。
15日朝、激しい雨の中、私たちは荷物と共に成都を出発しました。
雨でかすむ視界には、被災者を励ます言葉、哀悼のメッセージ、救援感謝の言葉を掲げた赤い看板が
次々と現れては通り過ぎて行きました。
運転手の王氏によると「2週間前はこのあたりまで死臭がただよってきた」のだそうです。
いよいよ被災地に来たのかと身の引き締まる思いがしてきました。
しかし周囲はいつまでもありふれた農村の風景が続きます。
家々の崩れた塀やがれきを見つけるたびに、地震の影響かと身を乗り出すのですが、
単に老朽化しただけのものなのか、区別がつきませんでした。
目立った被害を確認することなく、車は天馬鎮へ入って行きました。
画像は、左から天馬鎮小学校の仮設校舎入口、仮設プレハブ校舎全景、
文房具の配布を待つ楽民小学校4年生生徒。

まだ消えぬ地震への恐怖
午前10時、学校前に到着、雨はすでに小降りとなっていました。
警備員が鉄の門を開くと砂利の敷地に仮設教室が何棟も並んでいるのが目にはいります。
敷地の周りに張り巡らされた鉄線、コンクリートの通路と砂利敷きの校庭、そしてプレハブの仮設教室は、
灰色の空の下、なんとも無機質で冷たい感じがしました。
天馬鎮の4つの小・中学校合わせて1647人が、この仮設教室で学んでいます。
校舎倒壊の有無にかかわらず生徒全員が仮設教室に移動させられていました。
それは校舎を修復したり校舎の安全を確認したりするためだけでなく、
地震を思い出す環境(地震発生時、子どもたちは校舎にいた)から子どもたちを離し、
地震への恐怖を断ち切るためでもあります。
楽民小学校の江応建校長は互人多の訪問に感謝の言葉を述べた後、
「楽民小の生徒は幸いなことに全員無事でした。しかし家族が怪我をしたり、家が壊れたりしたことから、
地震に対する恐怖を持った子がたくさんいます」と当時の状況を話してくれました。
また「もうひとつの金法小学校は校舎が全壊し、子どもたちは地震に対して大きな恐怖心を持っている」とも
言いました。今でも毎日ように余震が続くこの地で、地震への恐怖を取り払うことは
とてもむずかしいのです。
天馬鎮は比較的被害が少なかったことから、四川省内の倒壊した家の子らが天馬鎮の親戚など
引き取られるケースもあり、「この仮設学校の生徒もどんどん増えています」と彼は付け加えました。
そして「皆さんの訪問は、子どもたちだけでなく私たち大人にも大きな励みとなります。みなさんの
温かい支援と心使い、本当に感謝します」と言葉を繰り返しました。
画像は、左から楽民小学校校長挨拶、互人多挨拶 代表進士(左)と互人多メンバー席(右)、日本の子どもたちからの折鶴を手渡す

文房具を一つひとつ手渡して
学生Vたちが積み荷を降ろし文具配布の準備をする間、
子どもたちは緊張した面持ちで背筋を伸ばして座っていました。
配布に先立ち、互人多の進士代表がお見舞いと励ましの言葉を述べ、それから折り鶴を先生に渡しまた。
この鶴は上海の日本人の小学生らが復興の願いを込めて折ったものです。
さらに文房具・菓子などが学生Vの手から、生徒一人ずつに配られました。
またバトミントンのラケット、ボールなど運動具もクラスの代表に手渡されました。
緊張気味に文具を受けとっていた子どもたちも、ハイチュウ(菓子:中国の子供たちに人気がある)が
手渡されると、口もとがほころび、ちょっとうれしそうな表情を見せてくれました。
最後に学生Vたちが流暢な中国語で子どもたちに励ましの言葉を送り、
中学1年生の菅沼Vの弾くヴァイオリンに合わせて「さくら」を歌うと、
「この歌知ってる」と得意そうな子もいました。
2曲目の「茉莉花」では、クラス全員が手拍子しながら歌い始め、教室には美しい旋律が流れました。
昼食をはさんだ昼休み、子どもたちが校庭に出てきました。
校庭といっても名ばかりで、遊具も何もないサッカー場半分ほどの砂利の空き地です。
のびのびと遊ぶにはあまりにも狭く、こんな砂利では走るのも不自由に違いありません。
それでも学生Vたちが外へ出ると、周りには子どもたちが大勢集まってきました。
小雨の中、フリスビーが空高く投げられると「わあ」と歓声が上がり、
ラグビーボールが不規則にバウンドすれば「おお」と驚きの声、
皆、夢中になってボールを追いかけ続けました。
すぐに打ち解けて楽しそうに遊んでいる彼らを見て、子どもたちに国境はないのだとつくづく感じました。
この笑顔がつかの間のものでないことを、そして一日も早く元の学校に戻ることができるようにと祈りつつ、
私たちは学校を後にしました。
画像は、左から文房具配布の様子、運道具を代表で受け取る子どもたち

画像は、左から学生ボランティアと、もらったリュックを掲げる子どもたち、
天馬鎮小学校の仮設校舎内外の子どもたち
復興へのみちのり
午後、江校長の案内で都江堰市を視察することができました。
人口約70万の都江堰市は今回の地震で死者3089人、行方不明者224人、
そして20万人もの被災者を出しました。
郊外の道路沿いには仮設のプレハブ住宅が次々と建てられ、すでに8万人が入居しています。
一方市内では多くの建物が倒壊・損壊しており、割れたガラス、傾いた柱、崩れた壁、がれきの山、
それらはまさに映像で見る地震の光景そのままでした。
ぺしゃんこになった建物を前に私たちはただ息をのむばかり、
復興への道の長さを痛感せずにはいられませんでした。
しかし町は死んでしまったのではありません。
無人化したビルの下では、歩道や広場のいたるところにテントが張られ、
人々は身を寄せ合いながらも、日々の暮らしを営み始めていました。
テントの脇で煮炊きする人、トランプに興じる人も見えました。
瓦礫が徐々に片付けられ、仮設テントの商店やオフィス、銀行や郵便局、そして役所も業務を再開し、
町中は復興に向けて少しずつ確実に歩み始めているのです。
「都江堰の復興には8年の歳月がかかります」と説明する江校長の口調はとても力強く
「困難に負けない、希望は捨てない」という復興に向けられた強い意志が感じられました。
彼らは被災者でありながら、また被災地復興のために働く人々なのです。
私たちは四川大地震という自然の猛威を前に、
人間の命ははかなく、無力であることを見せつけられました。
しかし、それに負けず生きようとする人々がおり、そして彼らを支える人々がいることも知りました。
それが人間の強さであり優しさなのでしょう。こんな人たちがいる限り、
復興への道がどんなに困難であっても彼らはそれを乗り越え、成し遂げていくのでしょう、
いや成し遂げてほしい、と心から願いながら上海への帰路につきました。
最後になりましたが、この度の四川物資配布にご協力くださいました方々、
とくにチャリティセミナー開催にご尽力くださった拓知投資咨詢(上海)有限公司、エルダス社、
また物資購入にご協力くださった国誉貿易有限公司(コクヨ)、森永製菓、
さらに物資の配送と保管、現地での車両手配を引き受けてくださった上海林内有限公司、
信息産業電子第十一設計研究院有限公司、そしていつも活動を支えてくださっている皆様方に
改めて心より、御礼申し上げます。
画像は、左から楽民小学校の生徒たち(左は江校長)、都江堰市内の様子


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